文・卯木悠里

 僕の中にはもうひとりの僕がいる。
 それが普通じゃないのは、子どもの頃から気づいていたし――とても、気持ち悪いと思っていた。
 自分の中に他人がいたら……それも四六時中ずっと一緒で、見る物も触る物も所有物をも共有するなら、誰だって嫌だと思うに決まってる。
 しかも、もうひとりの僕は、お世辞にも好ましいと言えるような性格じゃなかった。
 いつだったか、彼は僕のフリをして当時、『僕』に好意を持っていた女の子に近づいたことがある。
 そして、僕が眠っていて意識がない時、その子を甘い言葉でたらし込み――ああ、その先はとても口にできない。
 とにかく、それを『僕』の仕業としてやってのけ、僕は手ひどいしっぺ返しを彼の代わりに受けることになった。
 それ以来、僕は当たり障りのない接し方で他人との距離を取った。僕が興味を示したものは、彼がちょっかいを出してくる可能性が大きい。僕はもう彼の尻拭いをするのは御免だった。
 それでも、彼にはちょくちょく嫌な目に遭わされた。けど、人生二十数年生きていたら、それなりの処世術は身につくものだ。対外的にも、対内的にも。
 多少の荒波を揉まれながらも、僕は息を潜めるように生きてきた。
 作家になったのは、人と関わることを避けた結果だ。それともうひとつ、僕は彼のことを考えることが多かったけれど、それを吐き出す機会がなかった。行き場のない考察や想い、世の中の不条理さに対する憤りや、自らが負った境遇の切なさは、出口を求めて文章となり、物語となった。
 幸い、才能もあったようで、僕は文章で生計を立てることができた。
 ――そして、たいして他人に関わることもなく、ひとりで……いや、ふたりきりで死んでいくのだと、退廃的に思っていた。
 彼女に会ったのは、そんな風に僕が二十代にして人生の終わりを見据えていた時だった。
 編集アシスタントとして家に来た彼女は、頬を紅潮させ少し緊張気味にしていたのを覚えている。
 彼女は『僕』の作品のファンだと言った。でも、仕事として来たからには、個人的な感情は一切交えません、とも。
 とても誠実で好ましい人だなと思ったのを覚えている。
 多分、初めて会った時から、彼女にどこかしら惹かれていたのだと思う。ただ、興味を持つ――ということを長い間していなかったため、それに気づけなかった。もしくは、興味を持ったことを否定したかったのかもしれない。だって、彼に気づかれたら大変だ。
 でも、仕事を通して関わるうちに、彼女の存在が僕の中で大きくなっていった。何かと進捗を気にしたり、次の作品のアイディアをくれたり、おいしいお菓子を見つけたからと差し入れをしてくれたり、彼女は部屋を訪れては、とりとめのない話と笑顔で僕の心を掴んでいった。
 ああ、ヤバいな――そう思った時には、僕はもう彼女が欲しいと思っていた。
 けれど、これを彼に知られたらどうしよう。
 迷った末、僕は戦うことにした。もちろん、僕と同じ身体にいる彼を肉体的に殴ることなんてできない。ただ、彼が彼女に興味を示し、そのゲスな手を伸ばそうとしても守ってみせる。彼女と共に、ずっと諦めてきた『僕としての人生』を生きようと思った。
 もちろん、そう決意するにはとても勇気が必要で、心を揺らがないようにすることがまず最初の戦いだった。そして、もう一歩勇気を出して彼女に声をかける。

「よかったら、今度、遊びに行きませんか。……プライベートで」

 僕の言葉に彼女は驚いたように息を呑む。わずかな沈黙がとても長く感じた。僕は断罪を待つ罪人の気持ちで返答を待つ。
 やがて、彼女はふわりとした笑顔を見せた。ドキッと胸が高鳴った僕に、喜んで――とうなずいてくれる。
 嬉しい……幸せが満たす胸が、もう一度ドキリと鳴った。僕の意志と関わらず。
 嫌な予感がひやりと背筋を冷たくする。
 けれど、戦うと決めた僕はぎゅっと拳を握って彼女にこう告げた。

「それじゃあ、今度から『イチ』って呼んでくれるかな? 壱星だと仕事だって感じがするから」

 半分は本音。半分はウソ。『イチ』はふたりの僕のうち、『僕』を示す名前だった。
 彼女はわかったともう一度うなずいて、その形のよい唇で僕の名を呼ぶ。「イチ」――と。
 どくんと心臓が強く脈打つ。今度は自分の音だと確信が持てた。





2017年12月4日発売「Cool-B Vol.77」にて
書き下ろしショートストーリー「セイの場合」を掲載!

『イチの場合』と対になる書き下ろしショートストーリー『セイの場合』が「Cool-B Vol.77」に掲載されています。本編の前日譚がセイ視点から描かれます。セイから見た「イチ」と「貴女」の存在とは?